(いそがい・はじめ)の杉並ファクトチェック

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1945年3月10日東京大空襲の記憶(番外編)

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 1945年3月10日に東京大空襲がありました。今回は番外編として、浅草で被災した筆者の父、故・磯貝健一の手記を私家版遺稿集(2004年刊行)から転載します。

 

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私の3月10日 磯貝健一

 

 再び3月10日がやって来る。何年たってもあの夜の惨状は忘れる事は出来ない

 私は昭和19年4月から学徒動員で立川の軍需工場へ浅草の自宅から通っていた。3月9日はたまたま夜勤から朝戻って在宅していた。

 昭和20年に入って敵機の空襲は頻繁になり、毎晩のように空鏡警報のサイレンが鳴った。寝るときは何時でも直ぐ飛び出せるように、着のみ着のままで床に入っていた。我が家は母と二人切りなので逃げる時は身軽である。私はサイレンが鳴るたびに、鞄に亡くなった父親と先祖の位牌二つを入れて、肩にかけ、母は印鑑や銀行通帳などを鞄につめて玄関前の道路に造った防空壕に逃げ込んでいた。

 3月9日の夜は10時半警報が鳴って、例のごとく防空壕に入ったが、間もなく解除となり、やれやれと家に戻って又床に入った。それからまもなく再び空襲警報の カレンが鳴った。午前0時を過ぎて3月10日になっていた。

 防空壕に入るやいなや、突然「ガーー」っと辺りを覆いかぶす様な飛行機の爆音がしたかと思うと、「ダダダッーーン」っと何かを地面に投げ付ける鋭い大きな音がした。壕を飛び出して周りを見ると、暗やみの中で、我が家の左隣りの家がメラメラと燃えている。焼夷弾が落ちたのだ。右を見れば20メートル先の路上に燃えた家が投げ出されて、突きあたりの浅草国民学校への道をふさいでいる。

 防火用水桶からバケツに一杯水をくんで、反射的に燃えている家の玄関先に水をかけたが、足がガクガクとふるえてきた。普段やっている防空訓練とは全く違うのだ。爆音が次から次へと続く。その瞬間、何故か今夜の空襲は何時もと違うなと、感じた。そして「直ぐ逃げよう」と母に言った。

 自宅前に住む沢井さん親子が玄関前でオロオロしている。 「一緒に逃げましょう」と声を掛けた。皆で2ー30米先の言問通りにでる。

 両側の家々では荷物を外に出して、リヤカー、自転車や大八車等に積んで、逃げ支度におおわらはである。

 低空でB29が次から次へと飛んでくる。大通りに出た私達は右に曲がって言問橋の方向に駆けて行く。避難する人は未だ周りにはいない。私達が一番早く逃げだしたようだ。夜の闇の中を小走りに急ぐ。

 B29は手が届くばかりの低空で飛んで行く。探照灯に照らされて、機体は銀色に光っている。悠然として南から北へと飛んでゆく。私達は何故か言問橋を渡らずに、左に曲がって、待乳山聖天の小高い丘の方へ行った。森に包まれた丘と隣りの隅田公園は真っ暗だ。一緒に居た沢井さん達が何時のまにか居ない。母と二人で公園の中に立っていた。

 気がつくと、いつもの物を肩にかけていないで、自分の敷き布団一枚を重いのに担いでいるのだ。他には何も持っていない。どうしてそうなったのか記憶が全くないのだ。余程動転していたのだろう。

 風が次第に強くなって来た。私達は山谷堀の入り口に立っていた。何時の間にか辺りが明るくなりだした。火の海が押し寄せて来たのだ。みるみるうちに公園に人が集まりだした。最初にここへ来た私達は人波に次第に押されて、とうとう川岸に立つ形になってしまった。

 もう辺りは人で一杯だ。そして今までの闇が嘘のように明るくなった。一面が火の海となった。「熱いようー、熱いようー・・・」と叫び声が聞こえる。

 私達の手元に鍋やバケツ、釜などがリレー式に人々の手から手へと渡されて回って来た。私は急いで川の水を汲むと隣の人に手渡した。それを何回も繰り返した。どれくらいの時間その水のリレーをしただろうか。

「戦争だー、頑張れーがんばれー」と、皆が口々に叫びながら、水を掛け合う。それは異常な興奮状態だった。

 目の前の木造船が飛んで来た火の粉で、燃え始める。メラメラとその燃える炎で、隅田川の中を人が流されて行くのが見える。ただ見ているだけで、助けるすべも無い。橋の上では、浅草側と向島側から避難した人々がぶつかりあって、身動き出来ず、運んで来た荷物に火が着いて、逃げるに逃げられず、何人もの人が川に飛びこんで溺死した。

 ふと川の向こうを見ると、向島の町の空もあかるく、その中に真っ赤な炎の柱が天にむかって立って居る。まさに地獄絵図だ。

 それからどれ位の時間がたったろうか。気がつくと敵機の姿が見えない。空が明るくなりだした。朝である。辺りは静かだ。もう大丈夫だ。空襲は終わったのだ 人々は何処かへ去って行く。私達も自宅の花川戸の方に公園を出て歩きだした。

 B29の姿が見えなくなった。

 公園を横切って、大通りに出ようとしたら、異様な物を見た。土色をした一見マネキン人形のごとき物が幾つもころがっているのだ。数えきれない程だ。それが人間の焼死体とは直ぐは分からなかった。そして言問通りに出ると、もう道路は黒焦げの死体の山で、まともに歩けない。折からの強い風で目にごみが入ってうつむいて 歩いていると焼死体につまずいてしまう。

 私達、親子二人は無傷で、熱い目にも合わずに、無事に自宅の在った所に戻れた。家は焼け落ちていた。

 一面の焼け野原だ。幸いにも近くの浅草国民学校は焼け残った。ぞろぞろと助かった人々がそこの講堂に集まってくる。皆放心状態だ。いくら待っても一緒に逃げた沢井さん一家は帰って来なかった。